In principio erat Evolutionis

行動生態学・進化心理学などの勉強ノート・書評

井原泰雄 (2017)「現代的な文化進化の理論」(『文化進化の考古学』第1章,pp. 1-34)の蓄積的文化進化モデルについて

 

文化進化の考古学

文化進化の考古学

 

 

 David Bussの進化心理学の教科書に手を出す傍らで『文化進化の考古学』を読んでみたところ,第1章の文化進化のモデルの数学的扱いにかなり悩まされたので,ここに紹介してみたい.

数理モデル

 『人間進化の科学哲学』の第3章でも少し触れられているヘンリック (2004)のモデルを本章では紹介している.

  • N個体の社会を想定し,それぞれの個体が技術を模倣する.
  • その際,集団内で最も高い技術水準({ \displaystyle z_{h} } )を持つ個体を模倣する
  • 模倣にはエラーが伴い,模倣後の個々の技術水準{ \displaystyle z } 確率密度関数は次のガンベル分布に従うものとする.(ここで, { \displaystyle z_{h} - \alpha } は最頻値を表し, { \displaystyle \beta } は学習のばらつきの程度を示すパラメータである.)
  • { \displaystyle f(z) = \frac{1}{\beta}e^{- \frac{z - (z_{h} - \alpha)}{\beta}}e^{-e^{- \frac{z - (z_{h} - \alpha)}{\beta}}} }
  • この分布の期待値は { \displaystyle E(z) = z_{h} - \alpha + \beta\epsilon} となる(但し, { \displaystyle \epsilon } オイラー・マスケローニの定数).
  • この分布に従って,各個体が学習を行うとき,各時刻においては,最も高い技術水準の値{ \displaystyle z_{h} } が変化するのみで,他のパラメータは一定であるとする.
  • このとき,その社会における各時刻間の平均技術水準の変動は以下の式で表せる. {\displaystyle \Delta E(\bar{z}) = -\alpha + \beta(\epsilon + \log{N}) } が成り立つ.
  • これより,平均技術水準が増加するために必要な最小の { \displaystyle N } は, { \displaystyle N^{*} = e ^{\frac{\alpha}{\beta} - \epsilon} } であることがわかる.

何がわからなかったか

  • 以上の内容が式の展開なしに書かれていたため, {\displaystyle \Delta E(\bar{z}) = -\alpha + \beta(\epsilon + \log{N}) } の導出方法が全くわからなかった.

ヘンリック・モデルの導出

 元となったヘンリックの論文(のmanuscript?)も参照しながら,なんとか自分なりに理解してみた.以下にまとめてみる.

a) 蓄積的文化進化の方程式

  ヘンリック論文ではプライス方程式に基づいて,蓄積的文化進化をモデル化している.

  •  ある個体 { \displaystyle i }の技術は,確率 { \displaystyle f_{i} } によって学習対象として選択される.
  • N人の学習後の技術水準の期待値は { \displaystyle E(\bar{z}) = \frac{\sum_{i=1}^{i=N} f_{i}z_{i}} {N\bar{f}} } となる.
  • この式はプライス方程式型なので,以下のように変形できる*1
  •  { \displaystyle E(\Delta \bar{z}) = Cov(f, z) + E(f\Delta z) }
  • ここで,集団内の技術水準の最高値を有する個人のみを模倣すると考える.すなわち, { \displaystyle f_{i = h} = 1}であり, { \displaystyle f_{i \neq h} = 0 }
  • ここで { \displaystyle \sum_{i=1}^{i=N} f_{i} = 1 } より, { \displaystyle \bar{f} = \frac{1}{N} }であることに注意すると, { \displaystyle E(\Delta \bar{z}) = Cov(f, z) + E(f\Delta z) }  = E(z_{h} - \bar{z} + \Delta z_{h}) となることがわかる.
b) ガンベル分布の極値分布

 N人の学習結果の最高値の分布をガンベル分布の極値分布を考えることにによって求める.

  • まず,個々人の技術水準のガンベル分布の累積分布関数を考えると, { \displaystyle F(z) = e^{-e^{- \frac{z - (z_{h} - \alpha)}{\beta}}}} となる.
  • ここでN人の集団全体の技術水準の累積分布関数を考えると, { \displaystyle F^{N}(z) } となる.これはN人の技術水準の最高値の累積分である.(この式はヘンリックの論文にも明示的には書かれていない.)
  • 上記の累積分布関数を { \displaystyle z}微分し,確率密度関数を求めると次のようになる. { \displaystyle g(z) = N\frac{1}{\beta}e^{-\frac{z - (z_{h} - \alpha)}{\beta}}e^{-Ne^{-\frac{z - (z_{h} - \alpha)}{\beta}}} } (この式がヘンリックの論文のAppendixに掲載されていたので,ここから逆算して上記の累積分布関数を思いついた*2
  • この分布の期待値は, { \displaystyle \int_{-\infty}^{\infty} zg(z)dz } であり,簡単な計算から, { \displaystyle E(z_{h}) = z_{h} -\alpha + \beta(\epsilon + \log{N}) } であることがわかる.つまり,N人の技術水準の最高値の期待値がNに依存する.
  • ここで,個々人のガンベル分布の期待値より, { \displaystyle \bar{z} = z_{h} - \alpha + \beta\epsilon } であり,また, { \displaystyle \Delta \bar{z_{h}} = - \alpha + \beta\epsilon } となるので, { \displaystyle E(\Delta \bar{z}) = Cov(f, z) + E(f\Delta z)   = E(z_{h} - \bar{z} + \Delta z_{h})  = -\alpha + \beta(\epsilon + \log{N}) } であることがわかる.

  以上,2週間近く四苦八苦したものの,なんとか蓄積的文化進化の数理モデルを理解することができた.苦労した点の一つは,ガンベル分布自体が極値分布の一つ(指数分布の極値分布)であるのに,ガンベル分布の極値分布を考える,というところだ.ヘンリック論文を読む前は,個々人の技術水準自体は指数分布に従っていると解釈せざるを得ないのではないか,と延々と考えたが結論が出ず,ようやくヘンリック論文を検索して読んでみて,なんとか理解できた.しかしヘンリック論文のAppendixにも,N人の学習による確率密度関数天下り的に与えられており,累積分布関数がそこから逆算できることに気がつくまでは,どうしてこの確率密度関数になるのかがわからず大いに戸惑った.

 

 次回は本当に,David BussのEvolutionary Psychologyに進みたい.

 

 

 

*1:プライス方程式における「対立遺伝子の割合」の代わりに技術水準を,「適応度」の代わりに学習対象として選択される確率を想定すれば良い.

*2:厳密に言えば,ヘンリック論文では少しパラメータが違い,解析解が求まらない形になっているので,ヘンリックは数値シミュレーションによって,期待値の正当性を主張している.しかしながら,ヘンリック論文のパラメータの設定の仕方は議論全体には影響しないため,本稿では解析解が求まる形にしている.

Fiery Cushman (2014) "Punishment in Humans: From Intuitions to Institutions", Philosophy Compass (2014): 1–16

 中尾央『人間進化の科学哲学』における罰と教育の章についての補足として,Cushmanの論文を読んでみた.以下に内容をまとめてみる.

Abstract

  • ヒトの間における罰の進化には文化的制度(cultural institutions)が重要だ.
  • 文化的制度は外適応(exaptation)であって,罰についての生物的に進化してきた直感を利用するような,文化的に進化してきた規範の集まりとして捉えることができる.
  1.  バレンタインデーの例:性的再生産(sexual reproduction)の長期的適応の歴史に深く基礎づけられている.これは進化してきた心理メカニズムの集合を乗っ取った文化的制度と言える.
  2. 罰も同様である.心理的過程として罰を捉えることはもちろん可能だが,司法のシステムも大事だ.現代社会においては罰は規制の下にあり,制度化されている.罰を与える過程の社会的機能と,その文化的制度との関わりを説明する必要がある.
  3. 罰に関する心理メカニズム研究は現代社会の罰を上手く説明できないこと,近代の諸制度は進化してきた心理を乗っ取ってきたこと,外適応であることを本論文で主張する.また,大規模な協力的社会の出現にも大きな役割を果たしてきたことを主張する.

1. 心理メカニズム

1.1 応報的(retributive)動機による罰

  • 罰は「抑止としての罰」と「応報としての罰」の2つに分類できる.
  • 帰結主義アプローチ」は抑止としての罰を主張し,罰がより公であるほど,侵害が繰り返されるほど,侵害を発見しやすいほど,人々はより罰すると考える→しかし,これは罰の研究は,帰結主義は実質的にはヒトの罰の動機には効果がないことを示している.道徳的怒りによる,応報としての罰のほうがありうる.
  • 応報的罰も,究極要因としては,罰が抑止になるという理由で適応的であると考えられることはできる.しかし,至近要因については別途説明が必要だ.
  • なぜ抑止効果がある応報的罰は,帰結主義アプローチのいうような性質(侵害的行為が公であるほど罰するなど)に対してsensitiveでないのか.「進化は不完全だ」というのが一つの答えだが,それは不十分な説明だ.以降では,抑止としての罰の価値と応報的動機の関係を説明する.

1.2 罰を与えるかどうかは侵害の意図と因果的責任に依る


 応報的動機は3つの特徴があるとき最も強く引き起こされる

  • 1. ある行為が行われる
  • 2. その行為が危険を引き起こす
  • 3. その行為は「過失のある心理的状態」(culpable mental state),例えば危険をもたらす悪意が存在したり,危険が起こるだろうということの認識に対して無関心であったり,あるいはその可能性に対する無謀な軽視があるなど.
  •  先の三要素は心理学研究では「帰結」(outcome)と「意図」(intent)の2つの要素に分解して考察される.これまでの実験研究は,小さい子どもは帰結を,大きな子どもは意図を重視していることを示している.
  • 大人では,飲酒運転の事故の例を見ると,偶然の結果であっても,帰結を重視している(moral luck).飲酒運転によって事故を起こしたかどうかという帰結によって罰を与えるかが変わってくるのだ.→これは罰以外の他の道徳的評価ではほとんど見られない.
  • それはなぜなのか?:1つには危険行為の因果関係に基づく説明,2つ目はその行為を起こすに至った心理状態に原因を求める説明がある..
  • Moral luckが望ましい特性をもつような道徳的判断の因果的過程はどのように機能しているのだろうか?

1.3 ルールの例外

  • 例外1:不可抗力の場合は侵害行為も正当化されうる.
  • 例外2:心理的にコントローラブルでない場合.子ども,心身の不調など.また,夫婦が互いに対して擁護するような場合.
  • 例外3:侵害なしにもかかわらず罰したくなる傾向.麻薬,売春,複婚などは他者に侵害がない場合であっても罰する.

2. 適応上の合理的根拠

2.1 教育としての罰

  •  罰の進化的説明はどのようなものになるか.罰は,罰を与える者にもコストがあるので,適応度の最大化の観点からはどのように正当化されうるだろうか.→社会的パートナーの将来の行動を変化させる方法として,教育としての罰(pedagogical perspective)を考えることができる.
  • ゲーム的状況を設定した実験は,以前に裏切ったメンバーであっても,そのメンバーが罰せられていたら,他のメンバーから信頼されることを示している.→罰には教育的効果があるということになる.
  • 教育的観点としての罰は応報的動機の特徴的トリガーを説明するのに役立つ.→(1) 教育によって,侵害的行為を繰り返さなくなる,(2)accidentも,「教えられる機会」(teachable moments)として捉えることができる
  • しかし教育的観点は全てを説明するわけではない.
  • Nakao and Machery (2012)の罰の定義:an action that harms another organism’ (p. 834) and explicitly include ‘a failure to cooperate’ (p. 835) within the scope of harmful behavior.
  • この定義は広すぎるので,著者は「他者の行動を修正する目的で侵害すること」とみなして議論を進める.
  • 教育的観点としての罰は,2つの重要な論点を提起する.1つは結果主義として究極要因を捉えるならば,なぜ人々は至近的には教育的動機より応報的動機を有するのかという点だ.2つ目は罰の「レッスン」は究極的には誰のベネフィットなのかという点で,罰する者にとっての利益なのか,あるいは罰する者が属する広範な社会の利益なのかという問題だ.

2.2 なぜ我々は適応的には結果主義であっても心理的には応報主義なのか

  • なぜ結果主義は心理的動機としては弱いのか.進化が意図的に結果主義的動機を我々から隠しているように見える.
  • 感情や自己欺瞞は,合理性が弱めてしまうような,何らかのpre-commitmentをなすことができる.
  • 非合理的であることの進化的説明の例.愛情は相互信頼のシグナルになる.
  • もし人々が罰に関して完全に結果主義的であるならば,搾取(exploitation)に対して脆弱になる.(子どもがひどく泣くなら,親は子育てを諦める!)→子育てに対してやみくもにコミットするなら長期的に見て適応的となる.
  • このことは応報的動機が効く場合とそうでない場合があることを説明できるかもしれない.
  • 懐古的(Retrospective)なものにはsensitiveであって,応報的動機による罰が起こりやすく,将来的(prospective)なものには応報的にはなりにくいのである.なぜなら,prospectiveなものに対してはより搾取が起こりやすいのだ(prospectiveな観点から罰しても,罰せられた方が期待通りに行動するようになるとは限らない).

2.3 当事者による罰,第三者による罰

  • 罰には,「当事者による罰」と「第三者による罰」の2種類を考えることができる.
  • 血縁選択に基づく互恵的利他主義が第三者による罰の説明としてありうる.
  • しかし互恵的利他主義の説明は必ずしも十分ではない.実験結果は第三者による罰が匿名的状況や一回限りの状況でも起こることを示している.これは文化的群選択的説明を強めるものだ.
  • 文化的群選択論の観点からの二次的罰による第三者罰の説明:第三者罰を行わない個体に対して,罰しないことを理由にして罰するというもの.→実際にはあまり観察されないようであって,群選択説をサポートしない.

3. 現実に行われている罰

3.1. 人々は本当に互いに罰するのか?

  • 実験室的,仮説的状況ではなく,現実の罰はどのようなものか.
  • 10代前半ではゴシップ,中傷,social backstabbingなどは実際にコストを課しているようだ.
  • しかし,これらは教育的観点としてのものではなく,望ましくない社会的パートナーを排除するために行われているので,罰としては捉えられない.
  • (実験室の外での)‘real-word’で行われている罰は制度的罰である.家族内における罰はまた別であるが,それ以外では国家・企業,その他の制度による罰が行われているのだ.そして制度的罰には次の2つの特徴がある.
  • 1. 脅威(threat):実際にコストを課すのではなく,将来的利益に対する脅しとしての罰
  • 2. 撤退(withdrawal):協力関係から撤退による将来的利益の減少
  • 社会的撤退の脅しが適応的観点から重要なのは,直接的コストを課すことは報復を招く恐れがあるからだ.
  • 報復のサイクルは,群レベルのペイオフを増大させるのではなく,むしろ減少させることがよく見られる.これは群選択に対してchallengingな結果だ.
  • アテネの地下鉄の例:実験室レベルではアテネの人も89%が第三者的罰を課すにもかかわらず,実際にアテネの地下鉄ごみを捨ててもごくわずかの人しか関与してこない.
  • 応報のコストを無視すると罰に対する説明が上手くできないのである.

 

3.2 名誉の文化

  • コストがあっても罰を課す文化の例の一つ:名誉の文化.資源が希少で,集権化された国家のような権威のない場合が典型.男性の自己防衛,女性の性的忠実性.名誉に対する侵害は極端な暴力を伴う.
  • 名誉の文化は,属するクランの構成員が侵害されたら報復の連鎖を招く.
  • しかし,報復に消極的な場合もあり,ヒューマン・ユニバーサルではない.名誉の文化においては女性が報復的暴力を男性たちに促すのに重要な役割を果たす.
  • 名誉の文化における罰も,罰の判断に関する心理学的基盤は,因果的過程,偶然性に関して,他の場合と同様だ.

3.3 制度化された罰

  • 近代の西洋文化における罰はユニークで,ルールが事前に(ex ante)明確化されていて,罰を決定し,実行するものが職業的専門家であるという点で特徴的だ.
  • 制度化された罰は,2つの点において群レベルで重要な利点を有する.
  • 1. 公共財の侵害に対する罰の問題を解決している.
  • 2. 報復の連鎖の問題を解決している.
  • 制度化された罰は第三者による罰とは心理的カニズムが異なる.群選択的観点で言えば,第三者は侵害行為者に対して罰しようという心理的カニズムがあることになる.しかし,現実には警官は給与などの個人的利益によって,公共財を守っているのである.
  • このことは大規模社会における罰に新たな観点をもたらす.制度化された罰は個人的コストなしに第三者的な科罰を可能にしている.
  • 制度化された罰には疑いなく群レベルでの利益があるが,単に群レベルで利益があるというのではなく,そこには個人的コストがないという点が重要だ.
  • 名誉の文化は共有された規範はあるが,制度化されていないのだ.それゆえ,罰するときに極端なコストを払うことになる.
  • 制度化された罰は,名誉の文化と同様,ヒトの正義に関する直感に大きく基づく.

4. 総合:制度的外適応

  • 制度化された罰は外適応(exaptation)だ.
  • 制度化された外適応は,文化的群選択とは対照的な説明である.
  • 制度化された罰は群レベルの適応価に依拠しない.罰の動機の構造の形成に応答的な適応上の機能のほとんどは当事者間の罰の直接の教育的利益だ.それは報復のリスクがあるために非適応になりうる場合があるが,制度化された罰は報復のリスクを抑え,罰を一様に実行することを可能にしている.
  • 文化的群選択と同様に制度化された罰も,第三者による罰が大規模社会の出現と成功に重要な役割を果たすと考える.制度化された罰は,個人的利益と第三者による罰がcompatibleであるという点を強調する.
  • 制度的観点は,罰以外にも,協調,許し,寛容性,公平性,徳性,信頼などの心理学的研究に応用できるかもしれない.

 

 以上で本論の要約を終える.

 本論文の感想:

  • 制度化された罰は,罰する者が個人的利益に基づいて第三者罰と同様の効果をもたらすことができるという点は,現代社会における罰を上手く説明しているように思われる.
  • しかし,著者も指摘しているようにこのような近代西欧的な罰のしくみは,ユニークなものである.本論文ではこうした制度がどのように生じてきたのかは説明されていない.
  • また,仮に形式的には制度が整っていても,それが実際に機能しているかどうかは別問題であろう.法制度が整っていても汚職・腐敗が横行していると,制度の円滑な実行が行われないだろう.
  • なぜ,こうした諸制度が維持されているのかというメカニズムの進化的説明が待たれる.

 次回からはDavid M. Buss (2015) Evolutionary Psychology: The New Science of the Mind 5th ed.を読んでいく.

 

 

 

 

 

『人間進化の科学哲学』その8

第7章「教育の進化」

 本章では教育の進化について述べられている.罰がヒト以外でも頻繁に見られるのに対し,教育はヒト以外ではあまり見られない.それゆえ,ヒト特有の教育に特化した心的形質があるのではないかと考えるのが,ナチュラル・ペダゴジー説である.本章はナチュラル・ペダゴジー説について概説し,それに対して批判を加えている.

 まずは「教育」とはどういうものか,概念を整理する.著者はCaroとHauserの定義から,「教育」とは以下の性質を持つものとしている.

  1. 未熟な個体がいるときにのみ,行動を変化させる.
  2. その行動によって何らかのコストを払う(あるいは,直接的利益を得ない).
  3. その行動によって未熟な個体の学習を促進する.

 先に述べたように,ヒト以外では教育の例はあまりなく,近年になっていくつかの例がようやく見つかった.2006年にミーアキャットでの教育の例が報告されたのがヒト以外では初めての例で,その他には2008年にシロクロヤブチメドリ,2006年にアリの一種(Temnothrax albipennis)で教育の例が報告されている.ただし,これらの生物の教育はヒトの教育の起源と関係しているとは思われない.類縁関係にある生物では同じような教育の実例が観察されていないので,進化系統と教育が一致しているとは考えにくいのである.

 ではヒトにおける教育にはどのような特徴があるか.まず,ヒトの教育に関しては,相手の意図の理解が重要だということがあり,さらに,ヒトの教育は血縁関係がなくとも行われることもある.また,教育の内容も多様である.これらの点が他の生物における教育とは著しく異なるので,ナチュラル・ペダゴジー説が提唱されている.

 ナチュラル・ペダゴジー説とは,ヒトは,ヒトに特有の生得的な認知能力の集まりを有しているとする考えで,それらの認知能力によって,未熟な個体は,ひとたび明示的なシグナルを与えられたら,広い知識・能力を効率的・頻繁に学習できる,とする理論である.CsibraやGeorgelyは,ナチュラル・ペダゴジーを道具の使用と関連付けていて,心の理論や言語よりも古い系統的な起源があると主張する.つまり,ヒトが使う道具は目的と手段が離れていて,道具という観察できない知識の伝達は教育なしでは難しいということである.そして,ヒトの教育は,血縁関係にない間柄でも起こることもCsibraらは指摘している(乳児は親以外の大人に対しても微笑みかけるという例を挙げている).

 

 ナチュラル・ペダゴジー説への反論としては,初心者の学習の際に明示的なシグナルが不必要なのではないかという点がある.狩猟採集社会では初心者を狩りに連れ出したり,あるいは道具を渡してみるといった「促進的教育」の方がより多く見られるし,Sterelnyらの徒弟学習モデルも,明示的教育なしで複雑な文化を発展させられるとしている.

 さらに,いくつかの実験が,明示的シグナルが子どもの学習に寄与していないことを示していたり,また,明示的シグナルであれば誰の指示であってもいいわけではなく,権威ある人間の行動を学習しやすいという実験例のように,ナチュラル・ペダゴジー説に反する例が挙げられている.

 次に,ナチュラル・ペダゴジー説によって説明可能とされている「過剰模倣」について,代替的説明できることを著者は記している.過剰模倣とは,モデルとなる人物の行動の不必要・不合理な面まで学習してしまう現象のことである.CsirbaとGergelyによると,以下の2点によって過剰模倣はナチュラル・ペダゴジー的な説明ができるとしている.

  1. 子どもたちは,その行動が不合理であると理解している場合,その行動を真似しない.
  2. 明示的シグナルのない場合は,子どもたちは過剰模倣を行わない.

しかしながら,認知的に透明(不合理だとわかるよう)な状況であっても過剰模倣が起こるという実験結果もあるし,また,信頼できる人の行動についてのみ過剰模倣が起こるという結果も得られている.つまり,ナチュラル・ペダゴジーは必ずしも上手くヒトの教育を説明していないと思われる.また,「明示的シグナル」の持つ機能についてもナチュラル・ペダゴジー説の主張ほど単純ではないと考えられる.例えば「指差し」は3歳半~4歳半の子どもにとっては強い意味を持ち,指差しされたものの内容を,指差しをした人の知識に関連付ける傾向があるのではないか,という議論がある.また,「目をそらすこと」が社会的な疎外の感覚をもたらすという議論からは,子どもたちの学習においては,単に学習内容だけではなく,その他の意味付けも同時に行われるのであって,必ずしも一般的知識の学習を行っているとは言い切れないと言える.著者は最後に,ナチュラル・ペダゴジー説は信頼性バイアスの一つであって,教育に特化した心的形質というものを想定しなくてもよいかもしれないと述べている.

 

  本章の感想.本章で取り上げられている研究例はどれも興味深いものであったが,一読するだけではなかなか難しかった.教育がヒト以外ではなかなか見られないということからして,他の生物の例から帰納的に考察することも難しいのだろう.教育とはある種の互恵性なのではないかと思ったのだが,未熟な個体(初心者)にのみ選択的に行動するという点が特殊であり,また教育の見返りが何か特定しにくいので,互恵性としては捉えにくいのかもしれない(初心者に教育する→自分が何らかの理由で狩りができなくなる→教育した初心者に援助してもらう,といったメカニズムはあり得る?,あるいは間接的な社会的評判を加味してみることもできる?).ナチュラル・ペダゴジー説に難点があるのは確かだろうが,教育がヒト以外での実例が少ないということは,ヒトに特有の何らかの心的形質があると考えられるのは普通である.この学説の当否の焦点はその心的形質がどれだけ教育に特化したものであるか,という程度の問題に向けられるものなのかもしれない.

 

 本章で本書を読了したので,本書全体の感想を述べると,文化進化に関する著者の整理がわかりやすく,この分野の取り掛かりにふさわしい.ただ,二重継承説はいささかわかりにくかった(著者の説明は明瞭だが,二重継承説それ自体のメカニズムがよくわからない).理論的検討のみならず,罰の進化と教育の進化という2つの分野の実例も様々に挙げられており,これら2つの分野のよい紹介となっている.本書は人間の文化的行動の進化についてさらに深く研究できる可能性を示しているという意味でも,読むべき本の一つと言えるだろう.

 

 次は,本書の罰の進化に関するsupplementary readingとして,Fiery Cushman (2014), "Punishment in Humans: From Intuitions to Institutions", Philosophy Compass (2014): 1–16を読む.

『人間進化の科学哲学』その7

第6章 「罰の進化」

 本章では人間行動進化の実例の一つとして罰の進化を取り上げる.罰の進化はこの20年ほど研究が行われてきており,有力な仮説として「行動修正戦略」としての罰の進化が提起されている.しかし,本章では(他の動植物同様に)人間における罰は行動修正戦略と捉えるのは難しいことが示される.

 

 まず罰についての概念の整理が行われる.罰は「ある生物に損失を与える行為」(p. 134)といえるが,とりわけ罰は「条件的」である点に特徴がある.つまり,ある有害な行為に反応して罰が与えられるということである.本章では以下のように罰を定義している.

「その罰の受け手となる生物によって引き起こされた最初の有害な行為(あるいは形質)が原因となって,その受け手に対して行われる,有害な(すなわち適応度を下げる)行為」(p. 134,括弧内は原文ママ.)

 有害な行為(侵害,violation)とは,進化的観点から見ると,適応度の減少をもたらすような行為であることに注意が必要である.ここで著者は行為者及び行為の受け手の適応度の増減に基づく行動の区分を次のように整理している.

  • 利他的行動(altruism)→行為者の適応度:減少,受け手の適応度:増加
  • 利己的行動(selfishness)→行為者の適応度:増加,受け手の適応度:減少
  • 意地悪行動(spite)→行為者の適応度:減少,受け手の適応度:減少
  • 相互扶助行動(mutualism)→行為者の適応度:増加,受け手の適応度:増加

 なお,短期的にはコストのかかる行動であっても,長期的には適応度の増大をもたらすものである可能性があることを著者は指摘する*1

  罰についての以上の議論は,あくまでも行動的・機能的な定義をしているのであって,何らかの規範についての行為者・受け手の理解が罰にとって必要というわけではない.進化的観点からは,人間のみならず,動物や植物における罰も考察対象なのである.

 

 次に罰の進化についての以下の2つの仮説を検討する.

  • 行動修正戦略(behavioral modification strategy)としての罰:罰の被害者(罰を受けたもの)の行動が修正されることによって罰を与えたものが利益を得る.
  •  行動修正なしの罰:損失削減戦略としての罰と,損失負荷戦略としての罰 

 罰の行動修正戦略 としての進化は広く受け入れられている仮説である.人間社会における刑罰や,その他の生物一般で罰に対する応答が見られるということが理由として挙げられている.GardnerとWestの言を引きながら,人間においては罰を与える行動自体がしばしばコストのかかるものであるが,それにもかかわらず罰が進化してきたのは,罰を与える個体に対して他の個体がより協力するからではないかとしている.行動修正戦略の直感的正当性として「オペランド条件づけ」がある(ラットに対する電気ショックの実験など).ただし,オペランド条件づけは,時間的に連続していることが必要であるが,実際には行為とそれに対する罰の間に時間が離れていることがあり,これは行動修正戦略による罰の進化の妥当性としては疑問だ.そこで著者は行動修正なしの罰について,上記の損失削減戦略と損失負荷戦略を検討する.

 損失削減戦略とは,以下のようなものである.

  1. それまでの間,AはBに対して何らかの利益を与えていた(つまり,Aは何らかのコストを払っていた).
  2. Bは何らかの有害な行為をした.
  3. AはBに対して利益の供与を止めた(→「利益供与にともなう損失」の削減).

 AはBを罰することで,損失を削減しているので利益を得たことになるので,適応的といえる.

 損失負荷戦略とは,侵害者に対してコストを課すことによって,侵害者が罰を与えたもの,あるいはその血縁者に対して損失を与えることができなくなることによって,罰が進化するというものである.極端な例では侵害者を殺害,または深刻な被害を与えるということが挙げられる.

 

 次に著者は植物や昆虫における罰の例を記している.大豆と根粒菌ムラサキ科の植物Cordia nodosaとアリ,イチジクとイチジクコバチ,ユッカとユッカ蛾,アシナガバチのメスの模様など,様々な例が挙げられているが,いずれも行動修正戦略として罰が進化したとは考えられず,損失削減戦略や損失負荷戦略と見ることができるとする.これらの例で行動修正戦略が機能していないのは,これらの生物の行動の柔軟性が低いからであるという可能性が示唆される.そこで次に,行動の柔軟性がより高いと思われる脊椎動物の罰を検討する.

  魚類における罰として,ハゼ科のParagobiodon xanthosomusの社会階層の例では,罰を受ける下位個体は群れから追い出されてしまい,繁殖ができなくなってしまう.これは行動修正戦略ではないだろう.ベラ科のLabroides dimidatusの例は,行動修正戦略と見えるかもしれないが,実際には罰を与える個体の適応度が,罰を与えない個体の適応度よりも高いと考えられるので,損失削減戦略ともみなせるのである.次に哺乳類,特に霊長類の例を見る.ミーアキャットの例は,群れから追い出す損失負荷戦略であるし,霊長類では,アカゲザルの食物共有の例はどうか.この例では,食物を独占する個体に対する罰を与えるコストが低く,また,独占しようとした個体に対して罰を与えれば,食物を奪うこことができるので(つまり,罰を与える個体に大きな利益があるので),行動修正なしであっても罰が進化しうるとする.なぜ行動修正戦略としての罰が,行動の自由に変化する余地の大きい脊椎動物でさえ見られないのか.その理由として,長期記憶や利益の見積もりに関する認知能力の限界を挙げている.

 

 次に人間の系統における罰が検討される.人間は高い認知能力を持っており,行動修正戦略としての罰の進化がありそうであるが実際はどうであろうか.以下の2つは,行動修正戦略仮説への反論となりうる.

 行動修正戦略としての罰は,オープンなものでないと意味がない.隠されている場合,相手の行動の修正を期待できない.つまり,ゴシップのように,当人にはわからないような形での罰は行動修正戦略ではないだろう.

 村八分は,非常に多くの社会で見られるものだが,罰の受け手を追い出してしまうものであるため,これもまた行動修正戦略ではない.

 この2つの例のように,高い認知能力を持つ人間であっても行動修正戦略として罰が進化してきたとは必ずしもいえない.これは罰に関するいくつかの実験からも示唆される.人は,行動修正を伴いものであっても罰を与えることが示されているし,また,偶然の出来事に対しても罰する傾向があるが,これは行動修正戦略とは矛盾する.

 では罰と協力の関係はどうか.これについては以下のようなゲーム的状況を設定した実験がよく行われる.

  • 公共財ゲーム:各プレイヤーが払ったコストの総額の数倍の額をプレイヤーの人数で割った額をそれぞれのプレイヤーに分配するゲーム.→罰を与えられない場合は「フリーライダー」がもっとも得をすることになる.罰を与えることができる場合は,利他的な罰がよく見られ,それが行動修正戦略を支持していると解釈される.しかし,一部の社会では利他罰が見られないし,多くの社会では罰によって平均的な利得が減少しており,集団的な利益が増えているわけではない.このことは行動修正戦略によって罰が進化したという説への反論となる.
  • 最後通牒ゲーム:2人のプレイヤーA,Bがおり,最初にAは実験者から一定額をもらい,AはBに対してある額の分配をオファーし,Bはそのオファーを受け入れるか,あるいは拒否するゲーム→最初の金額の50%程度が拒否額になれば,プレイヤーが公平性を有しているということになる.
  • 独裁者ゲーム:最後通牒ゲームにてBに拒否する権利がないようなゲーム.→結果には地域差がある.タンザニアの狩猟採集を行っているHadza族では0%の提示が最も多いそうだ.

 Hadzaの社会には二者間の罰は当然あるので,罰が協力を誘発できていないことを示していると思われる.このように罰について地域差が見られるということは公平性に関するユニバーサルなモジュールはないことを示唆している.また,Hadzaの社会では第三者への罰も見られないので,第三者への罰は農業革命以後の大規模社会によって生まれたかもしれないとしている.

 

 結論として,行動修正戦略よりも,損失削減戦略や損失負荷戦略の方がよりよく罰を説明できると著者は主張している.

 

 本章を読んで,罰の進化に関して数値シミュレーションを行ってみた.罰を与える者(P),罰を与えないもの(NP),侵害者(A)の相対適応度をw,mをmultiplication factor,cを罰を与える(与えられる)コストとして,第k+1期の相対適応度を第k期の相対適応度の関数として以下のように与えてみた.

 

{ \displaystyle w_{p, k+1} = m_{p}\frac{w_{p, k}}{w_{p,k} + w_{np, k} + w_{a, k}}\exp(-c_{p}w_{a, k}) }

{ \displaystyle w_{np, k+1} = m_{np}\frac{w_{np, k}}{w_{p,k} + w_{np, k} + w_{a, k}}}

{ \displaystyle w_{a, k+1} = m_{a}\frac{w_{a, k}}{w_{p,k} + w_{np, k} + w_{a, k}}\exp(-c_{a}w_{p, k}) }

 

 以下のように,係数の値を変えてみることで結果がかなり変化しうることがわかる.定式化の問題もありそうであり,罰の進化は条件に依存する可能性が高いのだろう.また,罰を与えるものの適応度が低くなったとしても,それまでの間に侵害者の適応度が十分に低くなっているとすれば,罰が観測されなくとも,社会は維持可能なのかもしれない.どのような条件であれば,罰を与えるものの適応度が十分に高くなるのか,もっと調べないとわかりそうにない.

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 次回は第7章「教育の進化」を読む.

 

*1:著者は「短期的な適応度の増減」と「長期的な適応度の増減」と記しているが,これはいささか曖昧な表現に思われる.(短期的な)payoffは減少しても,(長期的には)適応度を増やす可能性がある,という意味で捉えればよいだろう.

『人間進化の科学哲学』その6

第5章「文化進化のパターン研究」

 本章では文化進化のパターン研究を取り上げている.パターン研究の中で最も重要なものが歴史的パターンの研究であり,その方法として用いられるのが系統学(phylogenetics)である.人間行動進化の観点で言えば,ヒトの近縁種(ネアンデルタールホモ・エレクトス)は絶滅しており,人間行動全般に関する系統学的研究は困難であるため,用いられにくいが,文化進化研究には利用されるとしている.

 系統学は,生物間の類縁関係(relatedness)の研究に用いられ,各生物のそれぞれの形質のコード化を行い,系統樹を最節約法などで推定することができる.この方法を文化進化に応用することができ,その例として,O'Brienらの1万年ほど前の南東アメリカの矢じりの変化の研究が挙げられている.こうした文化系統学は1990年代から2000年代初めに大きく進展し,進化考古学へと発展していった.同時期に人類学や写本文献学(stemmatology),言語学でも系統学的アプローチが用いられるようになってきた.

 人類学や写本文献学で系統学的アプローチが採られるようになった理由として,類似した文化は,環境に適応し,「収斂」した結果としてそうなっているのか,あるいは共通の歴史を有するかの判別の問題があったこと(「ゴルトンの問題」)や,写本が複数の系譜から成り立っていて(「混態」),系統のネットワークを解析する必要があったということが挙げられている.

 2000年代半ば以降,文化系統学はプロセス研究とも関わりながら研究され,例として,シベリアのハンティ族の服飾の系統関係や,チンパンジーのハンマー の種類(石のハンマーか木のハンマーか)の系統関係が,遺伝子の系統関係とは異なるため,文化的影響があることがわかるという研究などが示されている.

 

 著者はここで,系統学の方法論的問題について述べている.文化では各系統同士での情報のやりとりが多くあるため,「ツリー」の推定に妥当性があるだろうかという疑問が生まれる.この疑問に対しては,必ずしもツリーとして推定する必要はなく,上記の写本文献学の例などのように「ネットワーク」として系統関係を推定しても問題ないと述べている.また,オーストロネシア語族の言語のネットワークを分析してみたところ,水平伝播はあまり多くなく,近似的に「ツリー」とみなせる例が記されている.また,系統関係の「保持指数」(retention index)や「一致指数」(consistency index)の値を見て,必ずしもネットワークを形成していないという議論があるとしている*1.また,系統関係をどの単位で構築するべきかという問題もあり,文化進化に関して言えば,生物における「遺伝子」に相当するものがないということが指摘される.しかし,実用的にはどの形質を重要視して系統関係を推定するかについては研究者間で経験的な合意があるとしている.

 

 本章の感想.系統関係の推定の様々な実例が興味深い.前章で見た文化進化のプロセス研究では文化進化に際して何らかの選択圧が働きうることが記されていることを考えると,系統関係の「ネットワーク」において,ある文化が他の文化の形質を取り入れるときにどのような選択圧が働くのか,さらに考察の余地があるだろう*2

 

 次回は第Ⅲ部「人間行動進化の実例を検討する」に進み,第6章「罰の進化」を読む。

*1:もっとも収斂進化の影響もあるので,これらの指数だけでネットワークかツリーかを判断するのは難しいことを著者は指摘している.

*2:明治維新以後の日本の近代化の例はどうなのだろうか.

『人間進化の科学哲学』その5

第4章「文化進化のプロセス研究」

 第Ⅱ部は本章と次の第5章で構成されている.第Ⅱ部では文化進化の具体例を検討し,それらを文化の「プロセス研究」と「パターン研究」に分け,本章ではプロセス研究を扱う.まず文化について,Richerson and Boyd (2005, p.5)の定義を借りて,

文化とは,「教育,模倣,そして社会的伝達のその他の形態を通じ,同種の他個体から獲得され,個人の行動に影響を与えうる情報」で構成される行動・人工物など(p. 83,原文では引用符の誤りがあると思われるので修正している)

であると定義している.この定義は,文化進化の研究の対象となる「文化」が模倣や教育などの社会的学習*1によって獲得されることが多いという意味で妥当である.進化のプロセス研究とパターン研究の違いは,プロセス研究が選択圧を考察するものであるのに対し,パターン研究は自然における何らかの秩序関係を考察するものであるとしている.

 ここで,文化進化研究に対する誤解について述べている.一つは社会進化論的誤解であり,「進化」と「進歩」を同一視する見方である.もう一つは人文学・社会科学を生物学へ統合してしまうのではないかという危惧である.二つ目の誤解についてはダニエル・デネットが反駁していて,自然選択に基づく進化の定義は,実は生命の性質に依拠しているものではないという趣旨で誤解を解いている点が興味深い.

 

 次に文化のプロセス研究の例として疫学モデルが取り上げられる.スペルバー,ボイヤー,アトランといった疫学モデルの研究者らは文化進化について以下のように考えている.

  • 文化の突然変異率は非常に高い(つまり,累積的進化ではない)
  • われわれが持つ何らかの課題に特化した普遍的な心理メカニズムがアトラクターを形成している(進化心理学の「モジュール」に類似する)
  • 各世代の文化はアトラクターの付近に分布している
  • (従って,)各世代で類似した文化が見られる

 

 文化の突然変異率の高さとは,遺伝子の突然変異率の低さに比較すれば非常に高いのではあるが,累積的進化がそれゆえに不可能である,とまでは言えないと著者は批判する.スペルバーは文化は模倣ではなく推論によって受け継がれると主張するが,全く模倣がないとは言えない(著者は自分自身の例として,神社や寺の参拝方法を挙げている).

 アトラクターについては,ボイヤーによると,多くの宗教では直感を裏切るような言明であるところの「存在論的期待」があり,その背後には何らかの心的アトラクターがあるだろうとする.また,ニコラスやプリンスの研究では否定的な感情を強く引き起こす規範が受け継がれやすいことを示し,否定的感情がアトラクターになっていることを示唆している.ただし,アトラクターは文化の累積的進化を否定するようなものではなく,文化の適応度に影響を与える重要な要因の一つと捉えることができるのではないかと著者は指摘する.二重継承説側の立場では心的アトラクターを「内容バイアス」として捉えている.内容バイアスは文化の内容の違いによって文化の進化に違いが出るとするものであり,他方「文脈バイアス」ではコンテクストに応じて文化の学習が変化するというものである(模倣バイアスがその例).

 

 次に,言語進化について論じられている.「構成論的アプローチ」と「生成文法のアプローチ」の2つが取り上げられる.構成論的アプローチとは,エージェント同士の相互作用によってどのような状態が生じるかを考察するものである.「生成文法」はチョムスキーの提唱に始まる理論であり,ヒトは言語に特化した能力を有していて,「普遍文法」を持っていると考えるものである.

 ここで,構成論的アプローチを取る研究者は,言語進化には,生物進化よりも文化進化の方がより大きな影響を与えているとし,彼らから見ると,生成文法の考え方は生物進化に大きく依存しているという問題点があるということになるようだ.

 著者によるとこの対立軸は不適切で,生成文法のアプローチも変化してきており,主流となっている「ミニマリスト・プログラム」は構成論的アプローチに近いことを指摘している.

 

  ここで,人間行動生態学と文化の関係を論じる.人間行動生態学について,行動をもたらすような心理メカニズムについて明らかしていないものの,世代を超えて共通する行動に関して言えば,何らかの模倣がないとは考えにくいので,人間行動生態学の研究対象も文化と捉えてよく,人間行動生態学のアプローチによって,文化の適応度を明らかにし,さらに文化の適応度と生物学的適応度の一致の度合いを見ることができるだろうとしている.

 

 最後に,文化進化の他の要因として,「文脈バイアス」や「浮動」(drift)の要因もあることを示している.

 

 本章の感想.文化の突然変異率の高さをどのように捉えるかが問題となっている.当然DNAの複製のエラー率に比べたら文化の変異率が高いのは当然であろう.もっとも,生物学的な種の進化にしても,ダーウィンが想定していたよりは非常に速く起こる場合があることが今日では知られている.Reznick(2011)にはロンドンのアンダーグラウンドではチカイエカがアンダーグラウンドの形成以後,地表に住む種から,急速に種分化していった例が記されている.ましてや文化進化は生物学的種の進化より急速であって何らおかしくはないだろう.要はルウォンティンの選択の三条件(遺伝・変異・適応度の差異)における,「遺伝」と「変異」は文化進化においては程度問題であって,研究対象の文化が一定以上に渡って継続されていれば十分ではないだろうか.適応度に差異によって,長期的には変化の傾向性や,変化の傾向と変化をもたらすような要因が観察できると考えておけばよいのではないかと思われる.

 

The

The "Origin" Then and Now: An Interpretive Guide to the "Origin of Species"

 

 レズニックによる『種の起原』の解説本.現代的な進化論の理解に基づきつつ,ダーウィンの生きていた時代背景のもとで,ダーウィンが『種の起原』でどのようなアプローチでもって自然選択説を証明しようとしていたのか,よく理解できる一冊.

 

 次回は第5章「文化進化のパターン研究」を読む。

 

*1:第2章にて触れたアレクサンダーの言うところの社会的学習とは全く異なる.

『人間進化の科学哲学』その4

第3章 遺伝子と文化の二重継承説

 文化進化の理論に関して,二重継承説より以前に文化進化を考察したミーム論について触れる.ルウォンティンによる選択の三条件(形質の遺伝,変異,適応度の差異)を遺伝の原理とし,それをドーキンスが自己複製子(レプリケーター)の複製条件と読み替え,文化進化に適応したものがミーム論となる.ミーム論に対しては,文化の進化の場合,自己複製子というものがあると見なしたとしても,その突然変異率が高く,累積的進化を望むことが難しいという批判がなされ,そうした批判を乗り越えるべく提出された説が,本章で扱う遺伝子と文化の二重継承説である.

 二重継承説は,カヴァッリ=スフォルツァとフェルドマンの研究(1981)や,ボイドとリチャーソンの研究(1985)などを契機としており,進化心理学の勃興よりやや早い時期に研究が始まっている.二重継承説の主張は「文化は遺伝的進化の産物であるというだけでなく,文化が遺伝的進化を促進することもある.」(p.61)というものである.そして二重継承の心理メカニズムとして,模倣バイアスが挙げられている.模倣バイアスとは,「権威者」の行動を他の学習者が真似をすることによって,文化の累積的進化が可能となるという仕組みである.模倣バイアスは,権威バイアスと同調バイアスによって,突然変異の程度を十分に低く抑え,文化が世代を経るごとに徐々に適応的なものになってゆくことによって,文化の累積的進化を可能にしていると捉えることができる.

 文化の累積的進化の成功条件には,個体群サイズ,協力的な集団であることといったものが考えられる.個体群サイズについては,タスマニア島がオーストラリア本土から,海面上昇によって切り離されてしまったがために個体群サイズが小さくなり,文化の継承が難しくなったという議論が紹介されている.協力的な集団については,行動の模倣のしやすさの程度の問題と関連している.模倣対象の行動を学習することが困難であれば,模倣される側の協力がないと学習できない可能性があるということである.狩猟採集文化において,子どもに狩りを教えるということをその例としている.

 それではこの模倣バイアスそのものは進化の過程でどのように適応産物として生じたのか.ボイドとリチャーソンの説明によると,(EEAとして想定される)更新世においては環境の変動が激しく,それゆえに集団内の各個人が試行錯誤して行動するよりも,権威者の行動を模倣する方が適応的であっただろうということである.もっとも不安定さが非常に激しく,わずか数世代で環境条件が変化するような場合は個人の試行錯誤の方が適応的である可能性もあると著者は記している.そし二重継承説による文化進化の議論を,ルウォンティンの三条件に沿って,模倣エラー・個人の試行錯誤による変異,同調バイアス・権威バイアスなどによる文化遺伝,文化適応度の差によって,文化においても累積的進化が生じるとまとめている. そして文化進化の例として,利他罰の進化,アメリカにおける矢じりの底幅と重さの相関,フィジーにおける魚食のタブー,同じくフィジーにおける土器の破片の厚さの進化の例を挙げている.

 

 この議論はよく理解できない.

  • 他の学習者すべてが権威者の行動を真似れば,集団内の各個人の適応度は同じになる.しかし,誰かがより適応度の高い行動を行えば,その行動を採用する個人の包括適応度はより大きくなるわけであって,模倣バイアスが生じる理由にならないのではないか.環境条件が非常に厳しい場合,(集団内である程度成功していると推定できるような行動を)模倣しないことが非常に非適応的であるということは言えるだろう,しかし,非適応の度合いが緩やかなものであれば個人の試行錯誤によってより適応的な行動が生じやすいと考えることもできるのではないだろうか.環境の不安定性というよりも,環境の厳しさが問題にはならないだろうか.
  • なぜ権威者の行動を模倣するか,その至近要因が不明だ.例えば,何らかの集合的行為を行うために集団内での協力が必要であり,協力しないものには制裁が科される,といった背景があるならば,権威者の行動を模倣するべき要因が各個人にあると言えるが,そういう議論でもないようだ.狩猟採集社会では狩猟の成功のためにリーダーの行動に皆で協力するよう動機付けられるというような論理なら理解しやすいのだが.
  • 上記のように集合行為問題があるとすると,集団内の諸個人の行動がより非適応的なものであったとしても,より適応度の高い行動をするような個体がごく少数現れても,文化は進化しないのではないか.つまり,集合的意思決定が関与するような文化的行動は,集団内の少数の個体の変異には左右されないことになるはずである(囚人のジレンマナッシュ均衡を念頭においている.).逆に言えば,漸進的進化の可能な文化とは,集合行為的性質の行動ではないものということになるのかもしれない.

 

 次に著者は模倣バイアスの進化について取り上げる.模倣バイアスは信頼性バイアスというより一般的な枠組みの一部として理解できるかもしれないことを示唆する.先に見たように,ボイドとリチャーソンの研究では,模倣バイアスは環境変動の激しかった更新世においてヒトが獲得した形質であるとしている.しかし,近年の研究によると,チンパンジーやオマキザルにも模倣バイアスが見られるようであり,模倣バイアスは更新世にヒトが獲得したとは言えないかもしれないとする.とはいえ,模倣バイアスがあったからこそ更新世を生き延びたという可能性もある.また,単にリーダーの行動に追随するといった程度であれば他の動物にも多く見られるため,模倣バイアスは,一般的な形質なのかもしれないことが述べられる.そして模倣バイアスは,実は信頼性バイアスの一例なのではないかということが,発達心理学の研究から示唆される.幼児の学習・模倣の研究によると,幼児は3〜4歳以降には,誰の情報から学習・模倣するかを判断しているようであり,そこには信頼性の判断のためのバイアスがあるということがわかる.英語圏の幼児の実験で,普通の英語話者とスペイン語訛りの英語の話者の二人では,幼児は普通の英語話者の行動をより真似しやすいという例が紹介されている.次に紹介されている,否定的な評価を与えた人と肯定的な評価を与えた人では,幼児は肯定的な評価を与えた人の方を信頼しやすいという例は面白い.このように幼児の段階で信頼性バイアスがあり,それは模倣バイアスと共通する点が多いのである.二重継承説は信頼性バイアスの枠組みによって拡張できる可能性があり,信頼性バイアスは何らかの心的モジュールが背後にあるかもしれない.この点で進化心理学とも関連するであろう.

 

 本章の感想は,先に述べたように,模倣バイアスの進化のメカニズムが今ひとつよく理解できないという点である.究極要因としての適応性はともかく,至近要因はよくわからない*1.ある文化的行動が適応的であるから生き延びたとは言えても,適応するためにその文化的行動を行うとは言えないはずだ.また,文化の適応的意義とは何だろうか.食物タブーの例であれば理解しやすい.しかしコクレーンによるフィジーでの土器の破片の厚さの変化の例ではどうだろうか.フィジーの土器の破片は,2700〜2300年前までと550年前以降では厚さの平均値が増加し,2300〜550年前では減少しているとし,薄い土器は熱によって壊される可能性が低いから適応的ではないかと示唆している.しかし,それではなぜそれ以外の時期(2700〜2300年前までと550年前以降)で厚さが増していったのかがわからない.土器の厚さの適応的意義は(仮にそれがあるとしても)解釈しにくいのではないだろうか.つまり,信頼性バイアスによる学習メカニズムによって偶然的に学習した結果,このような土器の厚さになった,というようには言えても,何らかの適応的意義があるとは想像しにくい.二重継承説の適用範囲は案外狭いものなのではないかという疑問がある.

 

次回は第Ⅱ部「文化進化研究へのアプローチ」に進み,第4章「文化進化のプロセス研究」を読む.

 

*1:リチャーソンらの研究はナイーブグループ淘汰的であると捉えればよいのだろう.

『人間進化の科学哲学』その3

第2章 人間行動生態学

 人間行動生態学について、エドワード・ウィルソンの提唱した社会生物学はもはや影響力を持っていないとし、アレクサンダーらの研究プログラムから概観していく。

 アレクサンダーは、1960年代以降の行動生態学の進展を受けて、それらの成果を人間行動の進化的視点からの分析に応用していった。行動生態学の進展にはハミルトンの血縁選択説、トリヴァースの互恵的利他行動、マッカーサーとピアンカ、クレプスとデイビスらの最適採餌戦略といったものが挙げられる。アレクサンダーはその成果としてアヴァンキュレート・システムの考察を行った。 以下が著者のまとめるところのアレクサンダーの研究プログラムの基本前提である。

さまざまな生物が進化の過程を経て多様な行動を生み出してきたが、それらは最適化されたものであることが多い。人間行動も他の生物と同様にきわめて多様なものだが、人間行動も進化の過程を経てきた以上、同じく最適化されているだろうと推測される。ゆえに、人類学(あるいは人間社会生物学)の目標は、さまざまな地域で見られる行動を最適化という視点から分析・説明することだという。(p. 38)

 ドーキンスThe Selfish Geneの議論を思い起こせば、生物の行動は包括適応度を最大化するようなESSになっていると想定するのは理解しやすい。しかし現代の人間行動のどれだけの割合がESSなのかという点は別であろう。前章で見た進化心理学の考えからすれば、現代社会はEEAではないわけであって、はたしてESSと見なした上での分析がどれだけ有効なのかと疑問が湧いた(本章では実際にそうした批判が後述される)。

  アレクサンダーは包括適応度を最大化するような人間行動は「社会的学習」によって生み出されるとしている。アレクサンダーの言う社会的学習とは「発達過程からの刺激に反応して包括適応度の最大化という方向に沿った出力を行うという過程」(p.39)とのことである。この定義だけではイメージしにくいが、近親交配の忌避には幼年期を一緒に過ごすという発達過程からの刺激が必要であるという例が示されている。

 先ほど疑問点を述べたように、この考え方に対して進化心理学の立場からの上述のような批判がなされ、実際にアレクサンダーもそれを認めていたらしく、後年には「汎用的な心理メカニズムによる学習」によって、さまざまな環境に適応した人間行動を生み出されると想定した。ただ、人間行動生態学者のリサーチャーは心理メカニズム自体にはそれほど言及せず、適応度に影響するのは行動であるので、行動が最適化されているのかどうかを分析するという態度になっていった。

 

 心理メカニズムの不在に対しては他の分野の研究者から批判が上がり、代表的な批判としてキッチャーやストレルニーらの議論が検討される。

 キッチャーやストレルニーらによる人間行動生態学に対する理論的面での批判は二つに分けられる。一つ目の批判は、ある行動が最適化されているのかどうかは、心理メカニズムを検討しないとわからないという批判である。アレクサンダーは、男性が自身の子ではなく、彼の姉妹の子を世話するというアヴァンキュレート・システムを研究した。しかし、仮にある環境でそのシステムが最適であったとしても、他の環境で最適であるとは限らない。一度身についた習慣は他の環境でも維持されやすい、ということを念頭におくと、その環境下では最適化されていなくともアヴァンキュレート・システムが行われているという可能性もあるわけである。第二の批判は、進化的視点における行動の最適化という観点からしたら、現代の環境そのものでなくとも、何らかの環境における適応課題があり、また、適応的行動に対する遺伝的基盤が想定されるというのが通常であるが、人間行動生態学にはそれがないというものである*1。また、理論的批判の他に、アヴァンキュレート・システムが進化ゲーム論的にはevolutionary stableではないという趣旨の批判も紹介されている。

 

 次に、これらの批判に対する人間行動生態学側からの応答が紹介される。まずは「表現型戦略」(phenotypic gambit)である。表現型には可塑性があるので、環境の変化があっても、変化に対応した最適な表現型を生み出すことは難しくないだろうという考えに基づき、現代の人間行動も環境に適応したものと見なしてよいだろうとする見方である。しかし、人間行動に対する表現型戦略は成功し難いのではないかと述べられている。もともと、グラフェンらによる生物の行動の研究に際しての表現型戦略は、集団遺伝学による、適応した行動戦略を研究する際には複雑な遺伝的基盤を考えずともよい、という成果に基づいたものであった。それでは人間行動はどうか。人間行動の分析に際して、心理メカニズムを考慮する必要がない、とは言えないのである。ここで、リチャーソンとボイドの研究を引き、アメリカに移住したドイツ系移民の行動(土地を手放さない)が、果たしてアメリカにおける最適行動なのだろうかと疑問を提示している。

 

 表現型戦略を用いることはともかく、最適化モデルを使用すること自体は擁護できるということを著者は述べる。メリアム族のカメ狩りの例など、最適化モデルによって定量的な分析を行うことでき、そうした行動の適応度が高く、従ってその環境の下では安定であるということを示すことも可能だとしている。そこから、カメ狩りや、食物共有の研究などのように、心理メカニズムの考察につながるようなヒューリスティックスとして、最適化モデルは役立つ可能性が述べられる。とはいえ、実際のリサーチにおいては、(現代の)狩猟採集生活グループを基にして考察するわけであって、過去の進化史における人間集団とは違いがあるので、仮説構築のために最適化モデルを使用した場合、その仮説の検証は注意深く行わなければならないということを指摘している。

 

 最後に、人間行動生態学の進化人類学としての側面として、地域差から進化を考察するという視点があることを指摘し、例として第三者への罰が、タンザニアのある狩猟採集を行う小集団には見られないといったことを挙げている。

 

 本章を読んで考えたことは、人間行動生態学のリサーチの中心にある最適化モデルの正当化についてだ。現代社会はEEAとは言えないわけなので、農業革命後の人間に特有な行動を最適化モデルとして分析するにしても、進化史的にはごく短い時間で急速に変化した人間の行動が最適化しているものなのかどうかは、心理メカニズムを知ることなしには難しいのであろう。もっとも、人類が他の類人猿と分かれて、人類に特有な進化のパスを辿るようになってから獲得した形質もあれば、他の類人猿(あるいは他の哺乳類?)と共通するような形質もあるわけであって、そうした形質については、他の類人猿の行動との比較研究もできるのかもしれない。(本章では食物共有について、チンパンジーの例が記されている。)人間の感情も、他の類人猿と共通するものもあるだろうし、さらに複雑なものしては、進化心理学で言うところの「裏切り検知モジュール」にしても、ある程度グループで生活するような種であれば共通に持っていてもおかしくない(それが相同なのか、相似なのかは進化史の面からは問題になるのかもしれないが)。このように考えると、人間行動生態学は、最適化モデルによって仮説構築を行い、その仮説がある程度ヒューマン・ユニバーサルなもの示しているならば、他の類人猿との比較研究、人間間での地域差があるような場合は心理メカニズムの特定を目指し、リサーチしていくということになるのであろうか。

 

次回は第3章「遺伝子と文化の二重継承説」を読む。

 

 

 

 

 

 

 

*1:これはつまり、「行動」の「環境」に対する「最適化」の研究のはずなのに、「環境」と「最適化」を結びつける根拠が弱いというように理解できるだろうか。

『人間進化の科学哲学』その2

第1章 進化心理学

進化心理学の沿革とその方法論、進化心理学への批判の検討が行われる章。 1980年代半ば以降、コスミデスとトゥービーらの研究がスタートして進化心理学が勃興する。

 

  • コスミデスとトゥービーらは「個人差ではなくすべての人間に共通する普遍的な心理メカニズム」(p. 13)の探求が進化心理学の目標だとする。つまり、ヒューマン・ユニバーサルを重視する立場だ。
  • しかし 80年代半ばにはバスやケンリックらが個人差の進化的研究を進めていた。

前者は生物学の観点からは「類型思考」(typological thinking)であり、後者は「集団思考」(population thinking)であるとしている(p. 13)。なお、バスらも配偶者選択の研究を進めていく中で、ヒューマン・ユニバーサル的観点に力点をおいていっているようだ。

 

彼らによって、80年代半ばには「領域特異性」、「モジュール性」、「進化的適応環境」といった進化心理学の主要な概念が萌芽的に出現していった。そして進化心理学の基本的な前提を「モジュール集合体仮説」として以下のようにまとめている。

 

われわれの心は進化的適応環境において適応した形質、モジュールから構成されており、このようなモジュールの集合体がわれわれの心である。(p. 15)

 

以下、進化心理学に対する三種類の批判が検討される。

 

  1.  進化的適応環境は不安定である。
  2.  適応課題は、たとえ存在したとしても、必ずしもモジュール集合体仮説を含意しない。
  3.  過去の適応課題を知るためには、現在の心を知らなければならない。

 第一の批判は、ヒト属が大きく進化した更新世の時期は、気候データからはかなり変動のあった時期であるという事実に基づく(リチャーソンやボイドの研究など)。この批判に対しては、物理的環境が不安定であっても、安定な適応課題が存在し得ることを著者は指摘する。群れにおける順位の認識の必要性、ニッチ構築による安定した環境の創出などを例としている。また、頻度依存型選択によって異なる状態に応じた適応形質の進化を考えることができるとしている。なお、著者は「裏切り者検知モジュール」が安定的な集団内環境で進化した可能性を挙げているが、この点は十分には理解できなかった。不安定な物理的環境であっても生物はある程度安定した環境を自分たちで構築することができ、そうした安定した環境の維持のためには集団内で裏切り者(フリーライダーをイメージすればよいか?)を検知し、サンクションを与えることが必要になるということだろうか。

 

第二の批判(本書では先に第三の批判から検討している)は、方法論的問題と経験的事実についての問題の二つに分けられる。

 

方法論的問題としては(第三の批判に関する論点と絡み合っているのでややわかりにくいが)、ある適応課題があったとしても、それがモジュール集合体仮説を補強する論拠には必ずしもならない、ということだと思われる。この批判に対しては、実務上、リサーチの遂行の上では仮説の発見をもたらすものであれば十分有効だろうと示唆している。つまり、進化的適応環境による課題を想定し、そこから有効なリサーチ・クエスチョンを導くことができれば、あとは通常の心理学同様の実証研究を進めればよいということだと思われる。

 

経験的事実の問題としては、適応課題に対する解決方法が、特定のモジュールによるものでなくとも、様々な課題に対する汎用メカニズムでもあってよい、という主張が検討される。これに対しては汎用メカニズムの代表例として学習メカニズムでさえ心的モジュールが背景にあると考えうることを述べている。また、「形質のモザイク性」、つまり、各形質の独立性が高ければ、それぞれが独立に進化しやすく、各課題に適応しやすいと考えられる。逆に肺のように代謝メカニズムに強く依存しているものは独立に進化しにくいというわけだ。

 

第三の批判は、進化的適応環境がどういったものであったかを推測することが難しいので、そうした環境下での課題も推測しにいくという主張である。この主張に対しては、第二の批判に対する回答同様、仮説構築のためのヒューリスティックス(「発見法」と書かれている)であれば十分と見ている。

 

 本章の感想としては、進化心理学の基本的前提のモジュール集合体仮説そのものをもう少し詳しく説明してほしかったと思った…。初学者が読むという前提の本ではないため仕方がない。少なくとも、今後他の文献を読むにあたっての全体像を提示してもらったので理解の参考になるだろう。

 

次回は第2章「人間行動生態学」を読む。
 

 

中尾央(2015)『人間進化の科学哲学』その1

人間進化の科学哲学―行動・心・文化―

人間進化の科学哲学―行動・心・文化―

 

 

本書について著者は人間行動進化学を「科学哲学の観点から考察する本」(p. 1)と位置づけている。あとがきを読むと、著者は学部時代は京都大学文学部科学哲学科科学史専修に属し、大学院では科学哲学分野にて人間行動進化学をテーマとして研究を進めてきたようだ(p. 237)。なかなかその分野で進化的なリサーチ・フレームワークが理解されず苦労してきた様子がうかがえる。人間行動の進化を科学哲学の観点ではどのように捉えているのか、その理解に本書は役立ちそうである。

 

なお本書については進化心理学・行動生態学関係の書評・ノートに定評のあるshorebird氏が書評を載せているので、おおいに参考にして読んでいきたい。

 

d.hatena.ne.jp

はじめに

まず、著者の「進化」の定義の確認から。進化を定義することが容易ではないことを前提として、以下のように述べる。

ここでは何らかの形態・行動・心的形質が(遺伝的情報や、個体が学習などによって得た情報などを通じて)先祖から子孫へと受け継がれ、また何らかの理由(たとえばその形質を有することがその個体に有利であるなど)によって、世代を経てその形質が数を増やしていったり、減らしていったりする歴史的変遷を進化と定義しておこう。(p. 2)

この定義は妥当なものなのだろうが、「文化進化」を考えるときに「先祖」、「子孫」は生物的な意味でのそれとは限らないのであろう(後の章で触れられる?)。

また、文化進化の場合、「世代」を経なくても文化の変化はある程度あると思うが、差し当たり、そういった問題は進化適応環境(EEA)を考えるときには無視してよいということだろうか。たとえば福沢諭吉は幕末〜明治の大変化の時代を「一身にして二生を経る」経験であったと述懐しているが、このような歴史的重大局面(critical juncture)についての考察は進化的な議論とはまた別個に扱ったほうがよいのかもしれない。

 

本書は第I部で人間行動進化学の代表例として、進化心理学、人間行動生態学、遺伝子と文化の二重継承説を取り上げる。第II部では文化進化研究について、人間行動進化学、進化生物学や文化系統学などを扱うとのことだ。そして第III部では人間行動進化のリサーチの実例として罰の進化、教育の進化について述べられる。

 

進化のフレームワークが人間の社会的行動への理解にどれだけ寄与できるのか、科学哲学・認識論の切り口からどのように人間行動の進化を把握するのかを期待を持って読んでいきたい。