In principio erat Evolutionis

行動生態学・進化心理学などの勉強ノート・書評

『人間進化の科学哲学』その3

第2章 人間行動生態学

 人間行動生態学について、エドワード・ウィルソンの提唱した社会生物学はもはや影響力を持っていないとし、アレクサンダーらの研究プログラムから概観していく。

 アレクサンダーは、1960年代以降の行動生態学の進展を受けて、それらの成果を人間行動の進化的視点からの分析に応用していった。行動生態学の進展にはハミルトンの血縁選択説、トリヴァースの互恵的利他行動、マッカーサーとピアンカ、クレプスとデイビスらの最適採餌戦略といったものが挙げられる。アレクサンダーはその成果としてアヴァンキュレート・システムの考察を行った。 以下が著者のまとめるところのアレクサンダーの研究プログラムの基本前提である。

さまざまな生物が進化の過程を経て多様な行動を生み出してきたが、それらは最適化されたものであることが多い。人間行動も他の生物と同様にきわめて多様なものだが、人間行動も進化の過程を経てきた以上、同じく最適化されているだろうと推測される。ゆえに、人類学(あるいは人間社会生物学)の目標は、さまざまな地域で見られる行動を最適化という視点から分析・説明することだという。(p. 38)

 ドーキンスThe Selfish Geneの議論を思い起こせば、生物の行動は包括適応度を最大化するようなESSになっていると想定するのは理解しやすい。しかし現代の人間行動のどれだけの割合がESSなのかという点は別であろう。前章で見た進化心理学の考えからすれば、現代社会はEEAではないわけであって、はたしてESSと見なした上での分析がどれだけ有効なのかと疑問が湧いた(本章では実際にそうした批判が後述される)。

  アレクサンダーは包括適応度を最大化するような人間行動は「社会的学習」によって生み出されるとしている。アレクサンダーの言う社会的学習とは「発達過程からの刺激に反応して包括適応度の最大化という方向に沿った出力を行うという過程」(p.39)とのことである。この定義だけではイメージしにくいが、近親交配の忌避には幼年期を一緒に過ごすという発達過程からの刺激が必要であるという例が示されている。

 先ほど疑問点を述べたように、この考え方に対して進化心理学の立場からの上述のような批判がなされ、実際にアレクサンダーもそれを認めていたらしく、後年には「汎用的な心理メカニズムによる学習」によって、さまざまな環境に適応した人間行動を生み出されると想定した。ただ、人間行動生態学者のリサーチャーは心理メカニズム自体にはそれほど言及せず、適応度に影響するのは行動であるので、行動が最適化されているのかどうかを分析するという態度になっていった。

 

 心理メカニズムの不在に対しては他の分野の研究者から批判が上がり、代表的な批判としてキッチャーやストレルニーらの議論が検討される。

 キッチャーやストレルニーらによる人間行動生態学に対する理論的面での批判は二つに分けられる。一つ目の批判は、ある行動が最適化されているのかどうかは、心理メカニズムを検討しないとわからないという批判である。アレクサンダーは、男性が自身の子ではなく、彼の姉妹の子を世話するというアヴァンキュレート・システムを研究した。しかし、仮にある環境でそのシステムが最適であったとしても、他の環境で最適であるとは限らない。一度身についた習慣は他の環境でも維持されやすい、ということを念頭におくと、その環境下では最適化されていなくともアヴァンキュレート・システムが行われているという可能性もあるわけである。第二の批判は、進化的視点における行動の最適化という観点からしたら、現代の環境そのものでなくとも、何らかの環境における適応課題があり、また、適応的行動に対する遺伝的基盤が想定されるというのが通常であるが、人間行動生態学にはそれがないというものである*1。また、理論的批判の他に、アヴァンキュレート・システムが進化ゲーム論的にはevolutionary stableではないという趣旨の批判も紹介されている。

 

 次に、これらの批判に対する人間行動生態学側からの応答が紹介される。まずは「表現型戦略」(phenotypic gambit)である。表現型には可塑性があるので、環境の変化があっても、変化に対応した最適な表現型を生み出すことは難しくないだろうという考えに基づき、現代の人間行動も環境に適応したものと見なしてよいだろうとする見方である。しかし、人間行動に対する表現型戦略は成功し難いのではないかと述べられている。もともと、グラフェンらによる生物の行動の研究に際しての表現型戦略は、集団遺伝学による、適応した行動戦略を研究する際には複雑な遺伝的基盤を考えずともよい、という成果に基づいたものであった。それでは人間行動はどうか。人間行動の分析に際して、心理メカニズムを考慮する必要がない、とは言えないのである。ここで、リチャーソンとボイドの研究を引き、アメリカに移住したドイツ系移民の行動(土地を手放さない)が、果たしてアメリカにおける最適行動なのだろうかと疑問を提示している。

 

 表現型戦略を用いることはともかく、最適化モデルを使用すること自体は擁護できるということを著者は述べる。メリアム族のカメ狩りの例など、最適化モデルによって定量的な分析を行うことでき、そうした行動の適応度が高く、従ってその環境の下では安定であるということを示すことも可能だとしている。そこから、カメ狩りや、食物共有の研究などのように、心理メカニズムの考察につながるようなヒューリスティックスとして、最適化モデルは役立つ可能性が述べられる。とはいえ、実際のリサーチにおいては、(現代の)狩猟採集生活グループを基にして考察するわけであって、過去の進化史における人間集団とは違いがあるので、仮説構築のために最適化モデルを使用した場合、その仮説の検証は注意深く行わなければならないということを指摘している。

 

 最後に、人間行動生態学の進化人類学としての側面として、地域差から進化を考察するという視点があることを指摘し、例として第三者への罰が、タンザニアのある狩猟採集を行う小集団には見られないといったことを挙げている。

 

 本章を読んで考えたことは、人間行動生態学のリサーチの中心にある最適化モデルの正当化についてだ。現代社会はEEAとは言えないわけなので、農業革命後の人間に特有な行動を最適化モデルとして分析するにしても、進化史的にはごく短い時間で急速に変化した人間の行動が最適化しているものなのかどうかは、心理メカニズムを知ることなしには難しいのであろう。もっとも、人類が他の類人猿と分かれて、人類に特有な進化のパスを辿るようになってから獲得した形質もあれば、他の類人猿(あるいは他の哺乳類?)と共通するような形質もあるわけであって、そうした形質については、他の類人猿の行動との比較研究もできるのかもしれない。(本章では食物共有について、チンパンジーの例が記されている。)人間の感情も、他の類人猿と共通するものもあるだろうし、さらに複雑なものしては、進化心理学で言うところの「裏切り検知モジュール」にしても、ある程度グループで生活するような種であれば共通に持っていてもおかしくない(それが相同なのか、相似なのかは進化史の面からは問題になるのかもしれないが)。このように考えると、人間行動生態学は、最適化モデルによって仮説構築を行い、その仮説がある程度ヒューマン・ユニバーサルなもの示しているならば、他の類人猿との比較研究、人間間での地域差があるような場合は心理メカニズムの特定を目指し、リサーチしていくということになるのであろうか。

 

次回は第3章「遺伝子と文化の二重継承説」を読む。

 

 

 

 

 

 

 

*1:これはつまり、「行動」の「環境」に対する「最適化」の研究のはずなのに、「環境」と「最適化」を結びつける根拠が弱いというように理解できるだろうか。