In principio erat Evolutionis

行動生態学・進化心理学などの勉強ノート・書評

『人間進化の科学哲学』その8

第7章「教育の進化」

 本章では教育の進化について述べられている.罰がヒト以外でも頻繁に見られるのに対し,教育はヒト以外ではあまり見られない.それゆえ,ヒト特有の教育に特化した心的形質があるのではないかと考えるのが,ナチュラル・ペダゴジー説である.本章はナチュラル・ペダゴジー説について概説し,それに対して批判を加えている.

 まずは「教育」とはどういうものか,概念を整理する.著者はCaroとHauserの定義から,「教育」とは以下の性質を持つものとしている.

  1. 未熟な個体がいるときにのみ,行動を変化させる.
  2. その行動によって何らかのコストを払う(あるいは,直接的利益を得ない).
  3. その行動によって未熟な個体の学習を促進する.

 先に述べたように,ヒト以外では教育の例はあまりなく,近年になっていくつかの例がようやく見つかった.2006年にミーアキャットでの教育の例が報告されたのがヒト以外では初めての例で,その他には2008年にシロクロヤブチメドリ,2006年にアリの一種(Temnothrax albipennis)で教育の例が報告されている.ただし,これらの生物の教育はヒトの教育の起源と関係しているとは思われない.類縁関係にある生物では同じような教育の実例が観察されていないので,進化系統と教育が一致しているとは考えにくいのである.

 ではヒトにおける教育にはどのような特徴があるか.まず,ヒトの教育に関しては,相手の意図の理解が重要だということがあり,さらに,ヒトの教育は血縁関係がなくとも行われることもある.また,教育の内容も多様である.これらの点が他の生物における教育とは著しく異なるので,ナチュラル・ペダゴジー説が提唱されている.

 ナチュラル・ペダゴジー説とは,ヒトは,ヒトに特有の生得的な認知能力の集まりを有しているとする考えで,それらの認知能力によって,未熟な個体は,ひとたび明示的なシグナルを与えられたら,広い知識・能力を効率的・頻繁に学習できる,とする理論である.CsibraやGeorgelyは,ナチュラル・ペダゴジーを道具の使用と関連付けていて,心の理論や言語よりも古い系統的な起源があると主張する.つまり,ヒトが使う道具は目的と手段が離れていて,道具という観察できない知識の伝達は教育なしでは難しいということである.そして,ヒトの教育は,血縁関係にない間柄でも起こることもCsibraらは指摘している(乳児は親以外の大人に対しても微笑みかけるという例を挙げている).

 

 ナチュラル・ペダゴジー説への反論としては,初心者の学習の際に明示的なシグナルが不必要なのではないかという点がある.狩猟採集社会では初心者を狩りに連れ出したり,あるいは道具を渡してみるといった「促進的教育」の方がより多く見られるし,Sterelnyらの徒弟学習モデルも,明示的教育なしで複雑な文化を発展させられるとしている.

 さらに,いくつかの実験が,明示的シグナルが子どもの学習に寄与していないことを示していたり,また,明示的シグナルであれば誰の指示であってもいいわけではなく,権威ある人間の行動を学習しやすいという実験例のように,ナチュラル・ペダゴジー説に反する例が挙げられている.

 次に,ナチュラル・ペダゴジー説によって説明可能とされている「過剰模倣」について,代替的説明できることを著者は記している.過剰模倣とは,モデルとなる人物の行動の不必要・不合理な面まで学習してしまう現象のことである.CsirbaとGergelyによると,以下の2点によって過剰模倣はナチュラル・ペダゴジー的な説明ができるとしている.

  1. 子どもたちは,その行動が不合理であると理解している場合,その行動を真似しない.
  2. 明示的シグナルのない場合は,子どもたちは過剰模倣を行わない.

しかしながら,認知的に透明(不合理だとわかるよう)な状況であっても過剰模倣が起こるという実験結果もあるし,また,信頼できる人の行動についてのみ過剰模倣が起こるという結果も得られている.つまり,ナチュラル・ペダゴジーは必ずしも上手くヒトの教育を説明していないと思われる.また,「明示的シグナル」の持つ機能についてもナチュラル・ペダゴジー説の主張ほど単純ではないと考えられる.例えば「指差し」は3歳半~4歳半の子どもにとっては強い意味を持ち,指差しされたものの内容を,指差しをした人の知識に関連付ける傾向があるのではないか,という議論がある.また,「目をそらすこと」が社会的な疎外の感覚をもたらすという議論からは,子どもたちの学習においては,単に学習内容だけではなく,その他の意味付けも同時に行われるのであって,必ずしも一般的知識の学習を行っているとは言い切れないと言える.著者は最後に,ナチュラル・ペダゴジー説は信頼性バイアスの一つであって,教育に特化した心的形質というものを想定しなくてもよいかもしれないと述べている.

 

  本章の感想.本章で取り上げられている研究例はどれも興味深いものであったが,一読するだけではなかなか難しかった.教育がヒト以外ではなかなか見られないということからして,他の生物の例から帰納的に考察することも難しいのだろう.教育とはある種の互恵性なのではないかと思ったのだが,未熟な個体(初心者)にのみ選択的に行動するという点が特殊であり,また教育の見返りが何か特定しにくいので,互恵性としては捉えにくいのかもしれない(初心者に教育する→自分が何らかの理由で狩りができなくなる→教育した初心者に援助してもらう,といったメカニズムはあり得る?,あるいは間接的な社会的評判を加味してみることもできる?).ナチュラル・ペダゴジー説に難点があるのは確かだろうが,教育がヒト以外での実例が少ないということは,ヒトに特有の何らかの心的形質があると考えられるのは普通である.この学説の当否の焦点はその心的形質がどれだけ教育に特化したものであるか,という程度の問題に向けられるものなのかもしれない.

 

 本章で本書を読了したので,本書全体の感想を述べると,文化進化に関する著者の整理がわかりやすく,この分野の取り掛かりにふさわしい.ただ,二重継承説はいささかわかりにくかった(著者の説明は明瞭だが,二重継承説それ自体のメカニズムがよくわからない).理論的検討のみならず,罰の進化と教育の進化という2つの分野の実例も様々に挙げられており,これら2つの分野のよい紹介となっている.本書は人間の文化的行動の進化についてさらに深く研究できる可能性を示しているという意味でも,読むべき本の一つと言えるだろう.

 

 次は,本書の罰の進化に関するsupplementary readingとして,Fiery Cushman (2014), "Punishment in Humans: From Intuitions to Institutions", Philosophy Compass (2014): 1–16を読む.